【小林一茶の俳句代表作】春夏秋冬8選と生涯について

短歌・俳句

小林一茶は江戸時代の俳人です。作った句は2万作を超えるとも言われています。

一茶調と呼ばれる俳風と確立し、松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ程の地位を得ました。

 

小林一茶の有名な俳句を知りたい!

小林一茶の生涯を知りたい!

 

そんな方のために、この記事では小林一茶の俳句代表作を春夏秋冬に分けて2つずつ、小林一茶の生涯をご紹介します。

【小林一茶の俳句代表作】春2選

 

我と来て 遊べや親の ない雀
季語:雀の子
読み方:われときて あそべやおやの ないすずめ
意味:親のいない雀よ、私と一緒に遊びましょう。
感想:一茶は家庭環境が悪く、父の他界後、遺産相続で揉めていた。もしかしたら雀のようにどこかに飛んでいきたかったのかもしれません。
是からも 未だ幾かへり まつの花
季語:松の花
読み方:これからも まだいくかえり まつのはな
意味:めでたい松の花と共に、これからも長寿を願います。
感想:一茶が最初に詠んだと言われている句。葛飾派の新海米翁へ宛てたとされています。親代わりのように思っていたのでしょうね。

 



【小林一茶の俳句代表作】夏2選

 

蟻の道 雲の峰より つづきけん
季語:雲の峰
読み方:ありのみち くものみねより つづきけん
意味:足下の蟻の行列は、雲の峰のように長く続いていそう。
感想:自然主義的な、一茶らしい句。雲の峰よりもあくまで蟻の道が中心のこの句から、一茶がどのような視点で詠んだかがわかるような気がします。
蓮の花 虱を捨てる ばかり也
季語:蓮の花
読み方:はすのはな しらみをすてる ばかりなり
意味:美しい蓮の花を前にして虱を捨ててばかりいる。
感想:芭蕉の句を参考にした句。美しい風景に興味がない自身を表していて、一茶の性格が分かる句ですね。



【小林一茶の俳句代表作】秋2選

 

椋鳥と 人に呼ばるる 寒さかな
季語:椋鳥
読み方:むくどりと ひとによばるる さむさかな
意味:渡り鳥である椋鳥に自身を喩えられたことが季節と重なってより寒く感じる。
感想:苦しんだ若年期の句。帰ろうにも家がなく、実家からも追い出された状態の一茶の心持ちが表れているように思えます。
ちぎりきな 藪入り茶屋を 知らせ文
季語:
読み方:ちぎりきな やぶいりちゃやを しらせふみ
意味:誰かが帰省する人用の宿屋にいる事を手紙で知る。その人と何かを約束している。
感想:百人一首にもある清原元輔の「ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」の本歌取り(パロディ)とされている句。俳句について沢山勉強をしていたことが窺えます。



【小林一茶の俳句代表作】冬2選

 

これがまあ 終の栖か 雪五尺
季語:
読み方:これがまあ ついのすみかか ゆきごしゃく
意味:雪が5尺も積もるここが、私の最後を過ごす場所になるのか。
感想:豪雪地帯で、人が住むには厳しい土地だった故郷も、一茶にとっては特別な場所だったのでしょう。
ざぶりざぶり ざぶり雨降る 枯野かな
季語:枯野
読み方:ざぶりざぶり ざぶりあめふる かれのかな
意味:枯れた野にざぶり、ざぶり、ざぶりと、雨が降っている。
感想:擬音を積極的に取り入れた有名な句。字余りを起こしてまで、3回も繰り返すほどの雨とは、どんなものだったのだろう。



【小林一茶の生涯】プロフィールとエピソード

 

誕生

 

本名は小林弥太郎、信濃国(現:長野県)生まれ。

 

有力な農家の家系で、おばあちゃん子として育たられましたが、父が再婚した継母と仲が悪くなり、それを案じた父が15歳の時に奉公のために江戸へ出します。

 

不憫な少年時代だったとされていますが、この奉公をきっかけに俳句と出会います。

 

幸か不幸か、この家庭環境が後に一茶の性格、そして俳句に大きな影響を与えることになります。

 

若年期

 

10年後の25歳になる頃まで、一茶は俳人としての記録はほとんどなく、一茶は当時を

 

「非常に苦しい生活をしていた。」

引用:Wikipediaより

 

と回顧しています。

想像に留まりますが、15歳で家族と離れ、1人で江戸で働かされていたのはかなり辛いことだったのだろうと思います。

 

25歳の頃から、江戸東部および房総方面を中心に、葛飾派の俳諧師として活動を始めます。

 

ここで、一茶は松尾芭蕉や与謝蕪村と同じように東方地方の行脚生活を修行の一環で行いました。

 

一茶調の確立

 

39歳の時に父を失い、継母と遺産について約13年もの間争うこととなります。

 

小林一茶が実は家族と仲が悪く、遺産を巡って争っていた、なんて誰が想像できたでしょう。

 

幼少期の悪劣な家庭環境が芸術的な才能を育む、という話もたまに聞きますが、一茶もその1人だったのでしょうか。

 

40代に入る頃には、一茶は房総方面に戻り、俳諧行脚で生計を立てられるようになります。

 

当時の江戸は大衆文化が俗化していましたが、その中で一茶は一茶調という独自の作風を確立していきます。

 

このあたりから、一茶は江戸の俳句界で段々と有名になっていきます。

 

しかし俳諧行脚だけでは生活が不安定だった事と、父の遺産相続の問題が続いていたため、一茶は故郷に帰り、俳諧師匠として一茶社中を作ることになります。

 

故郷で俳句の師匠となる

 

51歳でようやく遺産相続問題が解決し、安定して生活することが出来るようになります。

 

この時既に全国的に名の知れた俳人だった一茶は、故郷である信濃に多くの弟子を抱えた俳諧師匠になります。

 

52歳で結婚をしましたが、妻と子どもに先立たれてしまいます。

 

その後再婚しますが、2度目の結婚生活も上手くいかず離婚。64歳で3度目の結婚をしますが、火事で自宅が全焼するという不幸な出来事も続いてしまいます。

 

さらに、片付いたと思われた遺産相続問題も、故郷では問題視されていました。近隣住民に理解されてもらえず、一茶は故郷に対してあまり良い思い出がなかったとされています。

 

翌年65歳で他界。一茶の生涯は不幸続きの人生でしたが、俳人としての地位は確固たるものとして後世に残ることになります。

 

しかし弟子の中から一茶調を継ぐ者は現れず、本人の功績以外では俳句界において、一茶調は大きな影響を与えられませんでした。



まとめ

 

一茶は生をテーマに俳句を作り続け、オノマトペなんかも積極的に取り入れました。

 

音楽や小説についての句や、子どもや小動物についての句もたくさんあり、複雑な家庭環境が背景にあると思うと、また違った読み方が出来るかもしれませんね。

 

小林一茶、松尾芭蕉、与謝蕪村は、江戸時代の三大俳人と言われています。
同じ時代に活躍した、松尾芭蕉と与謝蕪村についてはこちらの記事でご紹介しています。
合わせてお読みくださいね。

 

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