こんにちは。日本の文化調査隊の美緒です。
ご訪問ありがとうございます。
服飾評論家の市田ひろみさんがを2022年8月1日 急性呼吸器不全で亡くなりました。
90歳でした。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
服飾評論家の市田ひろみさんが1日死去しました。90歳。
世界各地の民族衣装を収集。海外で着物ショーを開き、日本文化を発信しました。90年代にはサントリーの緑茶のCMでも親しまれました。写真特集https://t.co/fwppAd8aJn pic.twitter.com/ceeN63LpJA
— 毎日新聞写真部 (@mainichiphoto) August 7, 2022
市田さんは、OL、女優、美容師として活躍するかたわら、書家や画家としても活動。
その原動力となるものとは?市田ひろみさんについて、どこよりもわかりやすくお伝えします。
市田ひろみに夫はいなかった?!ずっと独身だったの?
市田ひろみさんは、これまでに多くの団体に属し、講演活動で全国を飛び回る日々を過ごしてきました。それができたのも、独身だから、ともお話されていました。
つまり、結婚はされていなかったということですね。
もし、結婚されていたら夫はどんな方だったでしょうか?人生に「もしも」はないと言いますが、ちょっと想像してみましょう。
着物が似合い、美人で多才な市田さんには、きっと、ダンディーで着物が似合い、日本画などに精通し、日本各地の地酒をたしなむ、そんな方がお似合いなのでは、と想像してみました。
市田ひろみは若い頃すごかったってホント?どんなエピソードがあるの?
市田ひろみさんは、若い頃、商社へ勤務し、そのあと女優になるという、経歴です。
名前の「ひろみ」は、当時、お父さまがファンだった宝塚女優の「大空ひろみ」にからとっています。
お父さまが中国の鉱業会社に勤めていたので、小学生の時は上海で過ごしていましたが、戦況が悪化したために12歳で引き揚げました。その時、乗っていた列車が機銃掃射を受け、命からがら帰国し、終戦は滋賀県大津で迎えました。
その後は京都に移り住み、高校時代はインターハイに出場するなどスポーツ万能でしたが、そのかたわら、3年生の時には、美容師免許も取得、文武両道の少女時代でした。
1953年戦後まもないこの時期、女性が大学に行くのは珍しい時代でしたが、お母さまは「行っといたらええわ」と言ってくださいました。学校を卒業すると結婚する人が多い中、市田さんは仕事をしたい!という強い希望があり、商社への就職を果たします。
この選択にもお母さまの影響があるようです。というのもお母さまは1945年戦争が終わったすぐの頃に、スタイリストとして活躍されていたのです。その活動はまさにキャリアウーマン。
染屋さんや織屋さんのポスターやカレンダーのヘアメイクに着付け、日本航空のカレンダーのヘアメイクや着付けも長い間されていたというから驚きます。
ヘアメイクや着付けの高度な技術があるのはもちろん、営業力も兼ね備えた方だったのでしょう。
明治生まれの女性は日常的に着物を着る機会があったとしても、
人に美しく着せる
美しく髪を結う
美しくメイクをする
というのは別の話です。
私たちは毎日、洋服を着ていますが、人に似あうようにヘアメイクをし、美しく洋服を着せることは、簡単にできることではありません。
スタイリストとして活躍するお母さまに育てられた市田さんが、お母さま同様、いや、それ以上に様々な分野で活躍されるのは不思議ではないですね。
ヤンマーディーゼルに勤めながら、茶道、華道、書道、英会話などの花嫁修業にも力をいれていた市田さんは、ある時、茶道の先生に誘われて、大映に時代劇の撮影風景を見学しに行きました。
実は、それは、見学ではなく面接だったのですが、市田さんは見事に合格します。親戚には大反対されますが、市田さんの決意はかたく、女優への道をすすむことになりました。
1958年に映画デビューしてから数年間は芸能界で多くの映画などに出演しますが、まもなく、演技力に限界を感じて京都にもどります。
この現実を見極める力も、市田さんには備わっているようです。「和製ソフィア・ローレン」などともてはやされても、自分を見失わずに決断することができました。
居場所を変えること、それは、何も描かれていない真っ白な画用紙に絵を描き始める行為と似ていると私は思います。不安と無限の可能性に満ちたその場所に足を踏み出したことにより、市田さんは、着物と日本の文化を軸とした新たな人生を始めていくことになるのです。
市田さんはのちに、「自分が着物の先生になるとは思わなかった」と語っていますが、これはまさに、「今ここで」起きている現実に対応しつづけた結果が一本の道となってつながっていったことを物語っています。
市田ひろみのプロフィールをご紹介します!
市田ひろみさんのプロフィールをご紹介します。
生年月日:1932年7月10日
出身地:大阪府
出身大学:京都府立大学女子短期大学部国文科
経歴:
1945年 帰国 小学校時代を中国 上海で過ごす。帰国後は京都で暮らし始める
高校時代は陸上部に所属、円盤投げ、短距離、砲丸投げでインターハイ出場
1953年 京都府立大学女子短期大学部 卒業
1953年 ヤンマーディーゼル入社 部長秘書を務める傍ら、イメージキャラクターも務める
1956年 大映京都入社
1958年 映画デビュー
1961年 美容師に転職。1948年に母が操業した美容室で修行はじめる その後、呉服屋さんからの 声掛けで着付け教室を始める。現代日本の着付け教室の先駆け。
1968年 世界の民族衣装調査・研究
1993年 サントリー緑茶のコマーシャル出演 コマーシャル大賞受賞
肩書とこれまでに携わった活動:
服飾評論家、エッセイスト、講演家、書家、画家、美容師、㈱市田美容室 代表取締役、㈲市田アドプラン 代表取締役、日本和装師会 会長、京遊学舎 主宰、大阪大谷大学短期大学部 生活創造学科講師、㈱近鉄百貨店 顧問、㈱西川リビング 顧問、京都経済同友会等の各種団体役員、大阪証券取引所社外取締役、など。
市田ひろみの着付け教室はどこにある?
市田ひろみさんの着付け教室は、京都にあります。
現在は、市田ひろみさんのお弟子さんが跡を継いで、運営されています。
市田さんがお母さまの美容室で修業をしていた時のエピソードがあります。
呉服問屋さんから、ある話を持ち掛けられます。全国のデパートを巡って、「一人で着物が着れて帯を結べます」、という実演をしてほしい、と。着物の町、京都の呉服問屋さんには「着物を着れる人を育てなければ!」というある種の責任感、使命感のようなものがありました。
市田さんはこの話を受けてしまいますが、なんと、市田さんはその時、一人で着物を着れなかったのです。一週間の猛特訓を経て、着付け教室は無事に終えることができました。
平安時代から、着付けを学べる場所はありましたが、現在の着付け教室につながる形がここから始まったといわれています。
1963年の頃の話です。
ここにも市田さんの市田さんたる所以が垣間見えます。出来る出来ないではなく、パッと飛び込む、決めてから何をどうしたらいいか考え、必要なことに全力で取り組む、その集中力の高さが市田さんの武器のひとつだと思います。
それではここで、市田さんの着付けを学べる教室のご紹介をしましょう。
市田さんの技術や思想は、お弟子さんに受け継がれています。
京遊学舎(きょうゆうがくしゃ)
所在地:〒604-0883 京都府京都市中京区間之町通竹屋町下ル楠町607
TEL:075-212-2044
FAX:075-212-2049
ここには、着付けを学べる「きもの教室」だけではなく、いけばな、和裁、日本舞踊、三味線などの講座があります。
きもの教室では、手結びで着物の着方や、帯の結び方を学ぶことができます。
日本和装師会
山形、東京、愛知、京都、大阪、奈良、兵庫、岡山、福岡、香川に支部があり、日本和装師会認定講師による着付け教室が開催されています。
市田さんのもとで着付を学んだ約2100人もの会員からなる日本和装師会は、40年の歴史があり、古美術や狂言、エジプト史、歌舞伎、浮世絵、正倉院、などあらゆるジャンルの研修を開催し、大きな価値を提供しています。
京都だけでなく、まだ限られた場所ではありますが、市田さんの着付けを学ぶことができ、仲間と縁を繋ぎ、深めることができます。セレモニーで着物を着ることがぐっと減ってしまった現代では、着物という文化はすこし敷居が高いのかもしれません。ですが、日本人として、着物に触れる機会が用意されているということは嬉しいことです。
市田ひろみの美容室はどこにある?
市田ひろみさんの美容室は、市田さんが亡くなったあとは、スタッフの方により運営されています。
市田ひろみさん亡きあとも、市田さんのお母さま、そして、市田ひろみさんの思いを受け継ぎ、美容室は今後も運営されていくのですね。
市田ひろみさんが経営されていた美容院の詳細をご紹介します。
所在地:〒604-0924 京都府京都市中京区河原町押小路上ル一之舟入町384ヤサカ河原町ビル2F
TEL:075-256-9382
FAX:075-241-4818
メニュー:カット、パーマ、カラーはもちろん、着物や袴、浴衣などの着付、ブライダルも受付されています。
シックで落ち着いた雰囲気の店内で、お客様の要望に寄りそってくださるスタッフの方々。70周年を迎えた歴史あるサロンだからこその安心感と、着物や、和の文化に精通した市田さんが運営されているという事実に裏付けられた圧倒的な信頼感は、市田美容室が他の美容室と一線を画す大きな理由となっています。
市田ひろみの生涯とは?
市田ひろみさんは2022年8月に亡くなりました。90歳でした。
市田さんが就いた役職の一部をご紹介します。
・株式会社 市田美容室 代表取締役
・有限会社 市田アドプラン 代表取締役
・日本和装師会 会長
大学講師や証券取引所の社外取締役を務めたこともあります。
文化功労章の受賞経験多数、服飾評論家や着付師として活動しながら、世界の民族衣装の収集、研究もおこなって来ました。
あらゆる分野で大活躍された市田ひろみさん。そのパワーの源は若いころにスポーツで鍛えた体、そして、これまでに培ってきたものを社会に還元したいという気持ちが強かったからかもしれませんね。
市田ひろみの夫、若い頃のエピソードとプロフィール、着付け教室や美容室についてのまとめ
今回は、服飾評論家の市田ひろみさんをご紹介しました。
- 生涯、独身でした
- 26歳で映画デビュー 女優として活躍
- その後、美容師へ転向
- 服飾評論家、美容師、画家、書家、実業家、エッセイスト 多方面で活躍
「市田ひろみ」という一人の人間が、美容界、着物界に足を踏み入れたことによって、その活動が人と人を繋ぎ、大きなうねりとなっています。
着物や日本の文化に興味があるなら、市田さんが作られた着付け教室などを訪ねてみてはいかがでしょうか。
現在、着物が見直されつつありますね。若い人でも好んで着物を着ている人がいます。
若い人に人気の着付師「着物すなおさん」はこちらで詳しくご紹介しています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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