正岡子規は病弱ながらも文学だけでなくスポーツにまで功績を残したすごい人です。
そんな彼の作った俳句は25000を超えるとも言われています。
俳句は難しいイメージですが、正岡子規はなるべく現実に密着した口語で読みやすい句をたくさん残しています。
今の私たちにも通じる正岡子規の俳句を、この記事で少しでも伝えられたら幸いです。
そんな正岡子規の写生法による俳句の中から、近代文学に影響を与えた子規らしい俳句を四季に分けていくつか紹介します。
正岡子規の俳句代表作!【春の句】
朧夜や悪い宿屋を立ち出づる
・季語:朧月夜
・読み方:おぼろよやわるいやどやをたちいずる
・意味:質の悪い宿屋を出ると、夜空には朧夜が広がっている。
・感想:夜中に抜け出したくなるほどの悪い宿屋とはなにがあったのか。どこでも筆を取り出せる子規の写生法が上手く活かされた句。
雪の絵を春も掛けたる埃かな
・季語:春
・読み方:ゆきのえをはるもかけたるほこりかな
・意味:冬らしい雪の絵を春になっても掛けたままにしているせいで、埃を被ってしまった。
・感想:病弱で身動きの取れない子規ならではの、病床六尺の中で生まれた句。この句では雪の絵は掛かったままで外す描写がないので、病気で動けなかったからなのだろうか。
正岡子規の俳句代表作!【夏の句】
腐りたる暑中見舞の卵かな
・季語:暑中見舞
・読み方:くさりたるしょちゅうみまいのたまごかな
・意味:暑中見舞いでもらった卵が食べきれず腐ってしまっている。
・感想:何故腐ってしまったのか、何故それを俳句にしたのか、読めば読むほど考えさせられる不思議な句。
山の池にひとり泳ぐ子肝太き
・季語:泳ぎ
・読み方:やまのいけにひとりおよぐこきもふとき
・意味:山の池に一人で泳いでいる子を見て肝が据わっているなあと感嘆している。
・感想:子どもの頃から病弱で、おそらく山の池で一人で泳いだことがないであろう子規。自身とその子を比べて何を思うのか、なんとも涼しげな一句。
正岡子規の俳句代表作!【秋の句】
枝豆や三寸飛んで口に入る
・季語:枝豆
・読み方:えだまめやさんすんとんでくちにいる
・意味:枝豆が三寸(約9㎝)飛んで口に入る。
・感想:子規の中では特にユーモラスで明るい句。子規はあまり動けない体と、動くものとの対比で、より枝豆が飛んでいく様が目立ちます。
うれしさや七夕竹の中を行く
・季語:七夕
・読み方:うれしさやたなばたたけのなかをいく
・意味:七夕の願い事が吊るされた竹林の中で嬉しさを感じている。
・感想:この句も子規の中では明るい句。先頭にうれしさを置いているということは、それだけうれしかったのでしょう。見てみたいです。
正岡子規の俳句代表作!【冬の句】
絵屏風の倒れかかりし火桶かな
・季語:火桶
・読み方:えびょうぶのたおれかかりしひおけかな
・意味:火桶に絵屏風が倒れかかりそうになっている。
・感想:雪の絵や腐った卵の句と似ていて、良くないことが起きているのに何もしない、子規の精神性が垣間見える句。火事になっていないことを願います。
漱石が来て虚子が来て大三十日
・季語:大晦日
・読み方:そうせきがきてきょしがきておおみそか
・意味:大晦日に夏目漱石と高浜虚子が家に来た。
・感想:もはや五七五ではない。だが、俳句としての体裁よりも、自分の気持ちに素直になっているのがわかります。
正岡子規の生涯。病弱な俳人子規の一生とは?
正岡子規(本名:正岡常規 まさおかつねのり)は江戸末期から明治にかけて活躍した文学者です。
俳句や短歌、随筆に評論など、幅広く創作活動を行い、近代文学に大きな影響をもたらしました。
正岡子規は一体どんな人物なのでしょう。
正岡子規は慶応3年(1867年)伊予国温泉郡(現:愛媛県松山市)に生まれ、16歳で政治家を志し上京します。
大学予備門(現:開成中学・高等学校)時代に夏目漱石と出会い、親交を深め、23歳で帝国大学(現:東京大学)哲学科に進学しますが、文学に興味を持ち、翌年国文科に転科します。
余り体を動かさなかった子規ですが、野球にだけは強く興味を持ち、日本にベースボールとして導入された初期から喀血をするまで続けるほど、熱心に打ち込みました。
まだ日本語になっていなかった「バッター」や「ランナー」などの用語を「打者」「走者」と独自に訳したり、俳句や短歌、小説などの文学を通じて野球の普及に尽力しました。
このことが後世の野球に大きな貢献を果たしたとして、2002年(平成14年)野球殿堂入りしています。
病弱で野球好き!? 文学者は変人が多いと聞きますが、正岡子規も大分変った人だったのですね。
大学中退後、叔父の紹介で新聞記者となり、「獺祭書屋俳話」(だっさいしょおくはいわ)を連載します。
「獺祭書屋俳話」(だっさいしょおくはいわ)とは、1892年(明治25年)に正岡子規が発表した俳句論で、当時無名だった与謝蕪村を取り上げ、俳句の革新運動を行うようになりました。
元々体が弱く、喀血を頻繁にしていた自身を、鳴いて血を吐く鳥と呼ばれるホトトギスの和名に喩え、この頃から正岡子規と名乗るようになります。
自虐的で、文学的で美しさも併せ持つ「子規」という字。
ここで既に正岡子規のセンスの良さに驚かされますね。
子規は江戸時代までの形式に囚われた和歌を月並み調と批判したことや、古今集を全面的に否定したことは、当時の人々からは非難されましたが、与謝蕪村の研究や俳句分類の功績は現代も語り継がれています。
さらにはヨーロッパ美術の写実主義を俳句に活かし、いつでも俳句を書けるように筆記具と紙を持ち歩き、現実に密着し、難しい表現技法を使わない「写生法」を生み出しました。
文学に美術の技術を取り入れるなんて、誰が想像できたことでしょう。
1894年に日清戦争が勃発し、志願して従軍記者となり遼東半島へ渡ると、当時軍医だった森鴎外と出会います。
帰国後、病状が悪化し病に臥せる中で「病床六尺」(びょうしょうろくしゃく)を執筆します。
寝たきりでも創作活動を続け、痰の薬に使われる糸瓜についての句(絶筆三句)を読んだ翌日、34歳の若さでこの世を去ります。
正岡子規は俳句や横顔のイメージしかなかったですが、夏目漱石や森鴎外との交流、病弱で野球好きだということは、今回調べてみて初めて分かりました。
正岡子規が近代文学に与えた影響を調べても、歴史に名を残すのも納得でした。
いつかお札の肖像になるかもしれませんね。
正岡子規の俳句代表作と生涯についてのまとめ
・正岡子規は江戸時代末期から明治にかけて活躍した文学者
・正岡子規は文学を通じて野球の発展に貢献したとして野球殿堂入りしている
・正岡子規は現実に密着した「写生法」という表現方法を生み出した
・正岡子規は34歳で亡くなった
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