林家たい平(はやしやたいへい)さんは、みなさんもよくご存知の落語家さんですね。
落語家の林家たい平さんはどんな人かを、詳しく紹介する前に、武蔵野美術大学卒という異色の経歴の持ち主であることには間違いありません。
落語家で美術大学を卒業している人は、稀ですよね。
もしかしたら、林家たい平さんだけかもしれません!
林家たい平さんのプロフイールや実家からも垣間見えてきますが、ライフワークの波佐見焼との関係性についてもお伝えします。
林家たい平はどんな人なの?
林家たい平さんは、秩父を愛してやまない落語家として有名です。
落語以外の活動もご紹介しましょう。
・言霊群団「夢吽空」(むんく)所属。
声優の政宗一成(まさむね いっせい)さんが立ち上げた集団で、声優さんが所属する団体なのですが、林家たい平さんも所属しているのですね。林家たい平さんは、2006年10月より登場した、日本テレビのマスコットキャラクター「日テレちん」の声を担当するなど、声優としての活動もあるのです。
・「駄句駄句会」所属。林家たい平さんの俳号は「中瀞」(ちゅうとろ)です。
「駄句駄句会」(だくだくかい)というのは、句会のことですね。公開句会などが行われていて、過去には、高田文夫さんや玉置宏さんも参加していました。
林家たい平さんの出身地、秩父といえば、長瀞が有名ですね。だから、俳号にも「瀞」の字が入っているのですね。ここにも、林家たい平さんの秩父愛があるのを、私は感じてしまいました!
・自身の著書やCDの挿絵、手ぬぐいや色紙にデザイン。
林家たい平さんは自身の芸名にちなみ、鯛の絵柄をよく使用しています。
・2007年4月より尚美学園大学総合文化学部生活経営学科 非常勤講師
・2010年4月より母校である武蔵野美術大学(本人は「ムサビ」と呼んでいる)美術学部芸術文化学科 客員教授に就任。
林家たい平さんが、初めて落語に出会ったのは、大学入学時に立ち寄った落語サークルでした。
そのサークルは「新入生が入らないので解散寸前」でした。
それを聞いた、林家たい平さんは、なんと仲間を何人も集めて入部し、解散撤回となったのでした。
なんとも行動力のある、林家たい平さんですね!
お笑いは好きでも、落語には興味がなかったというたい平さん。
人助けをしたい!その一心で入部したのですね。林家たい平さんの人を思う心に、私は感銘を受けました。
ちなみに、林家たい平さんの落語サークルでの芸名は「遊々亭迷々丸」(ゆうゆうていめめまる)でした。
林家たい平さんは、当時、漫才やコントをやっていましたが、落語を見たことも聞いたこともありませんでした。
そもそも、美術の先生になるために美術大学に進学した、林家たい平さんでしたが、大学で学ぶうちに、デザイナーになりたい、と思うようになりました。
そのきっかけは、大学の授業で聞いた一言。
ある日、林家たい平さんは、ラジオで人間国宝の五代目柳家小師匠の「粗忽長屋」を偶然聞いたとき、面白くて面白くて大笑いしてしまいます。
この時、林家たい平さんは、落語家も人を幸せにできるデザイナーのようなものではないか?と思いました。そこから、本格的に落語を勉強し始めます。
デザイナーと落語家。私には、なんの関係もないように思えますが、この時の林家たい平さんにとっては、ビビッとリンクしてしまったのですね。
その後、林家たい平さんは、大学4年生の時に宮城県石巻市の老人ホームで落語を披露しました。聞いている高齢者の笑顔に励まされ、日和山の桜の下で落語家になることを決意しました。
大学4年生と言えば就職活動が始まっていて、大切な時期だと私は思います。ですが、林家たい平さんは、企業訪問をすることなく、つまり、安定の生活ではなく、落語家への道を決めたというのは、とても勇気のいる選択だったのでは、と、私は関心してしまいました。
林家たい平さんの選択は、一言「すごい!」ですし、無鉄砲というか完全に異色な印象もありますね。
2004年12月26日放送分から、日本テレビの長寿番組『笑点』に、林家たい平さんは病気欠席の林家こん平師匠の代役として出演するようになります。
人生は「運鈍根」(うんどんこん)といわれますが、林家たい平さんはまさに強い運の持ち主だと、私は思います。
その後、林家こん平師匠が、病気療養のために「笑点」を降板することになりました。
その状況を受けて、林家たい平さんは正式メンバーとなったのです。そして、今に至っているのですね。
林家たい平さんは、落語家だけでなく、声優や大学の客員教授までしているとは、私は驚いてしまいました!
林家たい平のプロフイールは?
林家たい平さんのプロフイールをご紹介しましょう。
本名 | 田鹿 明(たじか あきら) |
出身地 | 埼玉県秩父市 |
血液型 | B型 |
出身学校 | 秩父市立花の木小学校 秩父市立秩父第二中学校 埼玉県立秩父高等学校 武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業 |
林家たい平さんの実家は、オーダーメイドの洋服店で、父の田鹿喜作さんが「タジカ洋服店」を営んでいました。
実家が洋服店を営んでいたころは、店内で落語会が行われていて、たくさんの人が集う場所だったのです。そこで、子供だったたい平さんは、集まった人たちを笑わせる役を担っていた、というので、その時から、人を笑わせる才能のようなものを持っていたのですね。
「三つ子の魂百まで」と言いますが、子どもの頃にどのような環境で育ったか、というのは、その後の人生に影響を与えることはありますね。
林家たい平さんにとっては、「人が集う場所」「笑いに溢れた空間」というのが、子どもの頃から慣れ親しんだ環境だったのですよね。たい平さんが、落語家となった、というのも必然のように、私には思えます。
林家たい平さんの母は、父が「タジカ洋服店」をたたんだ後、「だがしやたいへい」という駄菓子屋を、兄は「うどん亭たじか」といううどん屋を経営していました。
林家たい平さんの家族は、みなさん商才があるのですね。
林家たい平さんの経歴をご紹介しましょう。
林家たい平さんは、1988年8月に林家こん平師匠に入門しました。
林家たい平さんの芸名は、林家こん平師匠から「たいへい」と名付けられ、当初は「たいぺい」と発音していました。
林家こん平師匠は「外国人に分かりやすいから」と語っていたそうですが、大師匠である、初代三平師匠の妻・海老名加代子さんから「たいへい」の方がいいとの提案があり、「たいへい」に決まりました。
林家たい平さんの愛称は「たいちゃん」。これは林家たい平さんの師匠である、林家こん平師匠の愛称「こんちゃん」に由来します。
たいちゃん、こんちゃん、と、なんだかリズムがいいですね。
林家こん平師匠はすぐには弟子として受け入れず、海老名邸に1年間住み込みで修行させた後、林家たい平さんを正式に弟子として受け入れました。
実は、林家たい平さんは、入門後も海老名家で計6年半修行を続けた、というから驚きますね。
2000年3月、林家たい平さんは、柳家喬太郎(やなぎや きょうたろう)さんとともに真打昇進。
林家たい平さんは、実は1999年から真打昇進の話はあったのですが、林家こん平師匠から「お前を飛ばす先輩ばかりで、後々困る。みんなに認められて真打になった方がいい。あと1年待って腕を磨いてからやったらどうだ」と言われました。
そこで、林家たい平さんは、その年は落語の稽古に集中しました。
翌年の2000年には、林家たい平さんは、真打に昇格。
林家たい平さんは
と語っています。
2004年12月26日放送分より、林家たい平さんは、林家こん平師匠の代役として笑点の大喜利に出演しました。
2006年、林家たい平さんは、林家こん平師匠が降板したことにより、5月21日放送分より笑点大喜利のレギュラーに昇格しました。
1年半もの間、「代役」として出演していたのですね。
林家たい平さんが笑点メンバーに正式に加入した時は、「三遊亭小遊三師匠以来、21年ぶりの新人!」として、注目されましたね。
そんなに長い間、新人は入っていなかったのですね。
さすが長寿番組!と私は驚いてしまいました。
2014年6月、林家たい平さんは、一般社団法人落語協会理事に就任。
ますます、落語界で活躍の場がひろがっていますね。
林家たい平さんは、運や能力もあるのでしょうが、人との出会いがいい、と私は思いました。
出会いをチャンスにして前を向いてまっすぐに進む姿勢がすばらしいです。
それが、様々は受賞に繋がっているのでは、と私は思います
林家たい平さんの受賞歴を以下にご紹介します。
・1992年5月 三代目横目屋助平、古今亭菊若とともに二ツ目に昇進。
・1993年 北区若手落語家競演会優勝、NHK新人演芸コンクール優秀賞。
・1998年 にっかん飛切落語会奨励賞
・1999年 国立演芸場主催花形演芸会銀賞、さいたま芸術劇場主催彩の国落語大賞。
・2004年 国立演芸場主催花形演芸会金賞
・2008年 平成19年度芸術選奨大衆演芸部門で文部科学大臣新人賞を受賞。
・2018年 第35回浅草芸能大賞奨励賞
林家たい平さんは、多くの賞を受賞しているのですね。
やはり、本業は落語家なんだなぁ、と改めて、私は関心してしまいました。
林家たい平の実家は今?
林家たい平さんの実家の跡地は、たい平美術館になっています。
所在地は、埼玉県秩父市番場町17-17です。
と、林家たい平さんの姉の宮前早苗さんは振り返ります。
林家たい平さんのお母さんである、田鹿つや子さんが亡くなった後、2018年に一度店を閉めました。
その後、
という林家たい平さんの思いで、たい平美術館が2022年7月にオープンしました。
たい平美術館は二階建てで、週末のみ予約制で営業しています。
・一階を「だがしやたいへい」と兄が営む整体院
・二階を「たい平美術館」を姉の宮前さんが切り盛り
「この美術館を訪れるのは、もちろんたい平ファンが中心ですが、地元の人も来てくれますし、この店をオープンしてからは友人たちもたくさん来てくれて、この1年は私の人生を凝縮したような感じです」
と姉の宮前さんは言います。
「母が店を経営していた頃に遊びに来ていた子どもたちが、大人になってまた買い物に来ることもあり、店を引き継いだことは私にとってとても感慨深いことです」
と林家たい平さんは語りました。
林家たい平さんが生まれ育った故郷のことを考えて、行動したことはとてもいいことだと、私は思いました。
自分自身が発展していくこと、そして、実家が生まれ変わって発展していくこと、そのふたつが重なっていくのは喜ばしいことですよね。
そんなところにも、林家たい平さんの優しい人柄が前面に出ているなぁ、と私は思いました。
林家たい平は波佐見焼をライフワークにしてる?!
林家たい平さんは、波佐見焼の作品をつくることをライフワークにしてるのです。
林家たい平さんは、波佐見焼の生地に染付や白磁を施し、独自の作風で作品を作ることをライフワークとしているのです。
波佐見焼とは、長崎県波佐見町で400年以上の歴史を持つ磁器のことですね。
実は、2024年3月9日から11日まで、林家たい平さんの作品の展示即売会が開催されました。
会場となったのは、羽田空港第2ターミナル1階にある「食を通じて日本各地の魅力を伝える」をコンセプトとした情報発信カフェ「わくらば」。
わくらばは、地域の特産品や伝統工芸品の販売だけでなく、イベントや展示・即売会が開催できるPRスペースも併設していて、食を通じてお客様と地域を繋ぐ場となっています。
林家たい平さんの波佐見焼との出会いは、もう30年も前の話になります。大学の同級生が陶磁器の卸会社に就職したのです。
その会社の社長は落語が好きでした。それがきっかけで知り合いました。
林家たい平さんが、その社長に陶器が好きだと伝えたら、今度、有田・波佐見に行くから一緒に行かないかと誘われました。それが30年くらい前の、林家たい平さんと波佐見焼との出会いなのです。
林家たい平さんは、その社長と一緒に有田・波佐見に行きました。
その時に、波佐見で西山さんという陶芸工房で染色をさせていただく機会がありました。その工程が、林家たい平さんには、すごく楽しかったのです。
その西山さんこそが、今もお世話になっている陶芸工房なんですね。
どこにご縁があるかわかりませんね。
やはり、林家たい平さんはいいご縁をつなげる方なんだなぁ、と私は思いました。
それからは、長い間行けなかったのですが、5年くらい前にまた、波佐見に染めに行けば何か楽しいものが作れるかもしれないと思い、林家たい平さんは、また通うようになりました。
林家たい平さんは落語家でありながら、一方では陶磁器の制作にかかわっています。
それは、趣味の領域をこえています。
落語以外に、打ち込めるものが、ライフワークとして存在していることは、林家たい平さんにとって、とても良いことだなぁ、と私はしみじみ思いました。
林家たい平のまとめ
林家たい平さんのまとめです。
・林家たい平さんは、落語家以外に、大学の客員教授、陶芸家の顔も持っています。
・林家たい平さんは、林家こん平師匠に弟子入りしました。
・林家たい平さんは、「笑点」大喜利メンバーとして21年ぶりの新人です。
・林家たい平さんは、実家をリフォームし、「たい平美術館」を2022年にオープンしました。
・林家たい平さんは、ライフワークとして波佐見焼の制作に携わっています。
林家たい平さんは、落語にとどまらず、活躍の場は、多岐に渡っていますね。
たくさんの賞も受賞していて、すごいですよね。
地元、秩父への愛情が深い、林家たい平さんですが、それを形にしたのが、「たい平美術館」のオープンだと私は考えています。故郷に対する、林家たい平さんなりの愛情表現がステキですね。
「デザインは人を幸せにする」という視点から、美術教師、デザイナー、そして、落語家へと進む道を決めることができた、林家たい平さんのその発想力の豊かさ、それが、たい平さんのすごさなのだ、と私は思いました。
林家たい平さんを支えている奥さまはどのような人なのでしょうか。
こちらで詳しくご紹介していますよ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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