菱川師宣は何文化のどんな人だった?版画や美人画ってどんなもの?

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こんにちは。日本の文化調査隊の美緒です。

ご訪問ありがとうございます!

今回は、浮世絵の始祖ともいわれている菱川師宣をご紹介します。浮世絵はどのような時代背景において発展していったのか、菱川師宣はどのような絵師だったのか、その魅力をたっぷりお届けします。

まずはこちらの話題からどうぞ!

菱川師宣が活躍したのは元禄文化!どんな時代だった?

元禄文化とは、江戸時代前期、元禄年間(1688年~1704年)頃に栄えた文化のことをいいます。

この時代は、農業、商業ともに栄え、特に都市が発展していくとともに商業も盛んになっていきます。経済的に豊かになっていった町人によって、大坂や京などの上方を中心に栄えた文化を元禄文化といいます。

この時代は江戸よりも大坂や京が栄えていたのですね。

それまで、芸術や文化などを支えていたのは、特権階級の人たちでしたが、江戸時代は日本の歴史の中で初めて、町人が文化を支えていくことになります。

元禄文化の代表的なものは、俳諧の松尾芭蕉、浮世草子の井原西鶴、浮世絵の菱川師宣、絵師の尾形光琳、人形浄瑠璃の近松門左衛門、歌舞伎の市川團十郎、などで彼らはほぼ同じ時期に活躍をしています。

現代でも人気のあるこれら文化の数々はこの時代に確立され、脈々と受け継がれ、受け入れ続けられているのですね。

経済的に精神的に豊かになった町人のパワーがこれらの文化を支えていたという形は、現代も同じだと私は思います。多くの若者や経済を支えている人々が文化や芸術に親しみ、結果として支える形になっています。



菱川師宣はどんな人で何をした人?出身地はどこ?

浮世絵草創期を代表する浮世絵師で、浮世絵の始祖ともいわれています。

安房国保田(ほた)、現在の千葉県鋸南(きょなん)町の縫箔師(ぬいはくし)の家に生まれました。縫箔とは、布に刺繍をし、金銀の箔を押して模様を作り出すことを言います。子ども時代は、縫箔の手伝いをしていた師宣は、やがて、江戸に出ていきます。そこでは、狩野派や土佐派の絵師たちの技法を学んだ上で自らの感覚をプラス、独自の様式を確立していきます。江戸での生活において、当初は縫箔を生業としていましたが、絵がとても上手で好きだったので、次第に絵師として活動していきます。

絵本の挿絵を描きながらさらに技術を磨いていった師宣。次第に、本における文章と挿絵のバランスにおいて個性を発揮しています。文章を少なく、挿絵を大きく。このようなスタイルは江戸の庶民の間に受け入れられていきます。

既存の様式で満足せず、よりよいもの、より人々にとって見やすいものを考え、提示していくアイデアの豊富さと洞察力に優れた絵師なのですね。

ある時、井原西鶴の「好色一代男」の挿絵を描いたことにより、その地位はゆるぎないものになっていきました。

150種にのぼる絵本や挿絵本、一枚絵の版画作品、また、多くの肉筆画も残しています。師宣は、江戸の庶民の生活や風俗について描いています。

現代の人がインターネットで世界のことを知るように、江戸時代の人たちは師宣のような絵師が描く絵によって、その時、江戸で起きていることを知る、情報源のようなものだったのかもしれません。
師宣が用いた版画という技法により、庶民の手にそれらが届くようになったというわけですね。



菱川師宣が取り組んだ版画と肉筆画。違いを徹底調査!

ではここで、版画と肉筆画の違いについて見てみましょう。

浮世絵は、江戸時代に成立した絵画様式のひとつであり、その表現技法には、木版画と肉筆画があります。

木版画には、一枚摺と版本(書籍)があります。絵師、彫師、摺師と分業することにより、効率よく、多くの部数を摺ることができ、安価で販売、書籍の場合は、貸出をすることができました。

特に、吉原遊郭などの風俗を木版摺りの一枚絵で制作したものは庶民の間で大変人気でした。

版画を商品として、その地位を確立させたのは、菱川師宣、その人なのです。

大量生産できたことで安価で販売できたこと、そして、作業を分業することで、そこに雇用も生まれました。浮世絵のまわりにはビジネスチャンスがあった、ともいえそうですね。

それでは、肉筆画とはどのようなものか、見てみましょう。

肉筆画とは、絵師が布や紙に直接描いたもので、いわゆる、一点物です。富裕層からの依頼で、絵師が描くもので、絵師が一人で、多くの色を使って鮮やかに描くので、それぞれの作品が個性的で、魅力的です。当然高価だったので、誰でも手にできる、というものではありませんでした。

この部分においても江戸文化の特長が、現代文化に受け継がれていることを私は感じてしまいます。

本物の絵画は数百万円するとしても、レプリカや印刷であれば、手が届くことがあります。

ごく限られた人だけしか鑑賞できないのであれば、文化、芸術は大きく発展することはないでしょう。間口を大きく広げることにより、文化は発展し、また、それに接した人の心も豊かにしてくれます。

その仕組みが江戸時代に定着していったことが、まさに、その時代の豊かさを物語っていると思います。



菱川師宣の美人画。代表作「見返り美人」とはどのくらい美人なのか?

そもそも、「浮世絵」というネーミングはどのようについたのでしょうか。

江戸時代以前、「うきよ」といえば、「憂き世」。つまり、「辛くはかない世の中」という意味でした。江戸時代になると争いごとはなくなり、平和な世の中を楽しもうという風潮が高まり、「浮世」という字があてられるようになりました。ウキウキ、ふわふわ浮いているような世、というところでしょうか。

「浮世」には、過去でも未来でもない、現在、という意味もあり、浮世絵には、庶民の暮らしぶりや、江戸の風俗、風景など、今を切り取ったものが描かれました。

現代でいえば、スマホで写真を撮り、SNSにアップするようなものでしょうか。スピード感はだいぶ違いますが、今を切り取って、多くの人と共有し、共感しあう。知りたい!という欲求は時代を動かすエネルギーになるのですね。

さて、ここで、師宣の代表作、「見返り美人」(肉筆画)について見てみましょう。

見返り美人は肉筆画なので、庶民には高嶺の花でした。この作品は、現代では切手のデザインになったことで有名になりました。

その「美人画」の女性の着物は、紅色の地に小花の地紋が織ってあり、菊と桜が刺繍してあります。帯は当時はやっていた「吉弥結び」。髪型は当時流行していた「玉結び」にべっ甲の櫛をしています。

後ろを振り返る構図は、女性の後ろ姿を効果的に魅せています。江戸時代のファッションリーダーですね。

モデルが誰なのかはわかっていません。女性に接する機会の多かった師宣は、ひそかに誰かをモデルにしていたと考えられますし、また、どこかで見かけた女性にヒントを得て創作したとも考えられます。

いずれにしても師宣の描く女性は「師宣の美女こそ江戸女」として多くの注目を浴びていました。



菱川師宣は元禄文化の代表者!どんな人だった?師宣が手掛けた版画や美人画についてのまとめ

今回は、浮世絵師 菱川師宣をご紹介しました。いかがでしたか。

生まれ育った環境と、天賦の才。時代に呼ばれるように生まれ落ちた師宣。それは偶然だったのか必然だったのか。

ここから浮世絵の歴史が始まります。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

それでは、またお会いしましょう!



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